「支持政党なし」は必ずしも「政治への無関心」ではない

私は、これまでいくつもの政党(または政党所属の候補者)に投票してきた。
共産党民主党新党日本未来の党および生活の党。
「この政党以外には絶対投票しない」などとは考えなかった。
消去法で選ぶなどの結果であり、強い支持の思いがあったわけではない。

 

自民党および公明党には、投票したことがない。
毛嫌いしているわけではないが、わざわざ投票する理由を感じなかった。
安倍政権の復活以降は、「自民党および公明党には絶対投票できない」と考えるようになったが。
安倍政権の腰巾着である維新の会および日本のこころも、全く支持できない。

 

今は、特定の政党を支持してはいない。
「支持政党なし」は、多くの場合「政治への無関心」と同義かもしれないが、私は無関心ではなく、「政党で政治家を一括りにしない」という態度なのだ。
支持または不支持は、政党ではなく、一人一人の政治家に対して判断する。

 

支持する政治家は、何人もいる。
民進党では、有田芳生真山勇一小川敏夫山尾志桜里の各氏。
自由党では、小沢一郎森裕子樋高剛の各氏。
社民党では、福島瑞穂氏。
共産党では、特に支持する人はいないが、志位和夫氏ら同党所属議員の主張の大部分は、私が同意できるものだ。
近年は、民進党共産党自由党および社民党を概ね支持しており、その4党(「立憲4党」とも呼ばれる)の共闘を促進させる団体「青葉・緑市民連合」に、最近になって関わり始めた。

 

このように政治を重視する私だが、政治(的)活動に関わることには、いつも期待すると同時に不安を感じる。
政治に関わりたがる人には、厄介な人が少なくないからだ。
独善的な人、他者の「思想の自由」を尊重できない人、陰謀論好きの人などは、避けたいと思う。
そのような人は、活動の拡大を阻むだろう。

 

政治活動を行なう市民団体には、以前にも参画したことがあったが、不見識および非常識な言動が頻発する実態に呆れて退会した。
「青葉・緑市民連合」には、そのような駄目団体にはならないでもらいたい。
そのために、今できることを行なわなければと思っている。

映画「君の名は。」は、傑作ではない

日本では記録的な興行収入を達成した映画「君の名は。」を、2日に観た。

あまり期待していなかったが、割引料金の日だったため、買い物などを兼ねて出掛けた。


都会の男子高校生、立花瀧と田舎の女子高校生、宮水三葉の心が入れ替わる。

瀧は3年前の「死の直前の」三葉と入れ替わりを繰り返し、次第に二人の間に絆が生まれる。

瀧が過ごす「現在」には三葉は存在しない。


鑑賞後、私の近くにいたお年寄りが「ストーリーがあまり理解できなかった」と言っていた。

やや複雑な設定であるだけでなく、スマホを扱う場面がかなりあることも、お年寄りには難解だっただろう。


私は、ネットで「予習」してから映画館に行ったためか、ストーリーは理解できたが、それが特に良いとは思えなかった。

映像は、非常に素晴らしいのだが…

登場人物の思考や行動に、不自然な点が多過ぎるのだ。


①瀧(心は三葉)がバイト先の女子大学生(奥寺)の切られたスカートを直すために「スカートを脱いで」と提案し、それを女子大学生が受け入れる。

しかも、瀧(心は三葉)がスカートを直している間、女子大学生は下半身を毛布のようなもので隠して瀧(心は三葉)の側にいて会話する。


②瀧が三葉に会いに行くときに、高校の友人(司)とバイト先の女子大学生(奥寺)が、瀧が誰と会いたいのかも分からぬまま付いて行く。

しかも、旅館の同じ部屋で3人が宿泊する。


③三葉の同級生(勅使河原、早耶香)が、三葉(心は瀧)の「町民全員の命を救うための町民全員の避難計画」に協力する。

しかも、犯罪行為と認識しているにもかかわらず、爆薬まで使用する。


④中学生の瀧が、初対面の三葉に「瀧君」と呼ばれたのに、「どうして俺の名を知っているのか」とは言わず、「変な人だ」などと反応する。


⑤別々の電車に乗っている瀧と三葉が、互いを見付けて、相手と接触するために次の駅で降りるのだが、なぜか二人とも駅から離れ、人気のない場所で出会う。

二人が乗っていた電車が次に停車する駅が同じであれば、相手を駅で探すのが自然だ。

二人が乗っていた電車が次に停車する駅が異なるのであれば、別の路線に乗り換えるのが自然だろう。

 

ついでだが、一度大きな隕石(彗星?)が落ちた場所に、再び彗星が落ちるというのも、かなり不自然だ。


新聞広告では「大傑作」との評価を掲載していたが、これでは、とても傑作と呼べるものではない。


監督の新海誠は、「このような場面を作りたい」と思ったら、登場人物の思考や行動が不自然になっても、無理やりストーリーを組み立ててしまうのだろう。

より想像力または創造力があれば、自然な形で場面を作ることができるはずなのだ。


②の場面は、瀧が一人で行動するのでは、登場人物の声の大部分が「瀧の心の中の声」だけになり、観客にとって音声が単調に感じられ、不評を買うとでも思ったのだろう。

だが、瀧が一人で懸命に探し回る姿こそ、感動を呼ぶシーンになったのではないか。


⑤の場面は、瀧と三葉が二人きりになる場面を、ラストシーンにしたかったのだろう。

だが、駅から離れて「物理的に二人きり」にしなくても、「心理的に二人きり」にすることもできる。都会の駅の人混みの中でも、「二人が出会った瞬間、二人には時間が止まったように感じられ、互いに相手しか見えず、しばらくの間、二人にとって、世界には二人しか存在しなかった」とすれば、自然だった。

 

恐らく多くの人にとって目新しい設定だったのは、心が入れ替わる二人の場所だけでなく、時間も離れていることだろう。

しかし、「心の入れ替わり」「タイムスリップ」は、これまで様々な映像作品で数え切れないほど取り上げられた題材で、それ自体は全く陳腐なものである。

そもそも、「君の名は。」のタイトル自体が、菊田一夫作品のパクリと言われても仕方ないものだ。

 

10日発表された「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画部門で、「君の名は。」は、次点にすら選ばれなかった。

昨年の日本映画の上位11作品にもなれない。これが正当な評価だろう。

 

www.cinematoday.jp

 

www.kinenote.com

ベスト・テン及び各賞の選出者は、映画を多く見ている者に厳しく限定され、しかも選出者数が多く、更にその年齢・所属の幅(映画評論家、日本映画記者クラブ員など)も広いことから、当年の映画界の実勢を反映する最も中立的で信頼に足る映画賞という評価を業界内外からいただいています。

 

それでも、今回の大ヒットによって、新海誠の作品は、今後も確実に注目され続けるだろう。

だが、それによって、本当の傑作が目立たなくなってしまうことにはならないだろうか。

そのような事態は、既に発生しているのかもしれないと思う。


(3日に投稿したものを、13日および15日に加筆修正した)