グリーンライン雑記帳

Twitterでは収まらない長文を投稿するブログ。本名を公表しない方針なので、Facebookは利用できない。

「正しいことを言う」だけでなく、工夫が必要!

私は「支持政党なし」だが、共産党および社民党の主張の大部分は正しいものだと思う。
でも、正しいことを言っているだけでは選挙で勝てない。

「支持政党なし」の人のほとんどは、政治家もしくは政党の、パターン化された、使い古された表現に魅力を感じないから、どの政党も支持しないのであろう。
ある方法でうまくいかなければ、別の方法に変える。それでもうまくいかなければ、更に別の方法に変える。そのような工夫を行なうのは、当然のことだ。
それにもかかわらず、共産党および社民党は、パターン化された、使い古された表現をほとんど改めようとしない。
これでは、選挙で負けるべくして負ける。

左翼的な市民団体の主張も、パターン化された、使い古された表現ばかりである。
当然のことながら、その運動は全く広がらない。

「正しいことを言っている自分たちが変わる必要はない。変わらなければならないのは、世の中だ」と考えるのであれば、今後も、失敗および敗北を繰り返すだろう。

カビの生えた表現で「憲法を守れ」「戦争反対」と主張することは、大部分の人にとって魅力がない。
そのような「正しい主張」が魅力を失うことで、「時代の変化に対応して憲法を変えなければならない」「国際情勢の変化に対応して憲法解釈を変えなければならない」との主張が魅力的に見えてしまう。
憲法を守れ」「戦争反対」と言い続けることが、むしろ憲法改悪および戦争のリスクを結果的に高めてしまうのだ。
これが、安倍政権が選挙で勝ち続けてしまう日本の現状だと思う。

どれほど高級なパンであっても、汚い箱に入っていては、選んでもらえない。
中身はそのままでも、美しい箱に入れなければならない。
そして、パンの一部にカビが生えている場合もある。そのときは、パン自体を新しいものに替える勇気も必要だ。

私が運営委員を務めている市民団体「青葉・緑市民連合」は、民進党共産党自由党および社民党共闘を支援する方針だが、その4党は、このままではそう遠くない将来全滅するだろう。
民進党および自由党の状況は、共産党および社民党とはかなり異なるが。
民進党は、「民主党政権の失敗」のレッテルをはがせないだけでなく、目指す社会像が曖昧なまま。
自由党は、代表の小沢一郎氏へのマスメディアなどによる袋叩きの「後遺症」を克服できないまま。

危機感を共有し、思い切った対策を講じなければ、4党に未来はない。
そして、私自身の未来も、悲惨なものになってしまうと思う。

批判だけでなく、経済政策を!

近年の日本の政治情勢は、自分の政策に名前を付けた者が選挙で勝つ傾向が続いている。「アベノミクス」「都民ファースト」「大阪都構想」など。名前を付けさえすれば、その政策の有効性が検証されず、そもそも中身があるのかすら確認されず、多くの有権者が「中身があり、有効な政策だ」と信じ込んでしまうのは、大変危険なことだと思う。
世論調査では原発再稼働反対が多数派なのに原発再稼働賛成の自民党が国政選挙で勝ち続けている理由のひとつは、原発再稼働反対なのに選挙では原発再稼働賛成の自民党に投票する人が少なくないからだろう。
原発再稼働に反対するのに選挙では原発再稼働に賛成する政党に投票する人の多くは、原発再稼働反対より経済政策を優先しているのではないか。
そのような人たちには、アベノミクスの恐ろしさを伝えないといけない。私が最も懸念することは、年金積立金で膨大な株を購入し、株価を操作していることだ。これでは、購入した株を売ることもできず、莫大な含み損を抱えることになりかねない。他にも、当面の内閣支持率の維持しか考えない、近視眼的な経済政策に、経済の専門家たちから、この国の将来を危ぶむ声が上がっている。
「立憲4党」とも呼ばれる野党勢力民進党共産党自由党および社民党)が政権交代を実現するためには、安倍政権への批判だけでなく、有効な経済政策を提唱し、それを効果的に宣伝しなければならないはずだ。
経済政策に「99%ノミクス」と命名するのは、どうだろう。「アベノミクスは1%ノミクス。1%の富裕層しか利益を得られない。でも、私たちは99%ノミクスで、99%の国民の暮らしを良くします」と主張すれば、多くの有権者の心に響くだろう。
命名の重要性を理解している「立憲4党」の国会議員もいる。だが、総選挙直前に打ち出しても遅い。「立憲4党」が早めにまとめる必要があると私は考えている。

「支持政党なし」は必ずしも「政治への無関心」ではない

私は、これまでいくつもの政党(または政党所属の候補者)に投票してきた。
共産党民主党新党日本未来の党および生活の党。
「この政党以外には絶対投票しない」などとは考えなかった。
消去法で選ぶなどの結果であり、強い支持の思いがあったわけではない。

 

自民党および公明党には、投票したことがない。
毛嫌いしているわけではないが、わざわざ投票する理由を感じなかった。
安倍政権の復活以降は、「自民党および公明党には絶対投票できない」と考えるようになったが。
安倍政権の腰巾着である維新の会および日本のこころも、全く支持できない。

 

今は、特定の政党を支持してはいない。
「支持政党なし」は、多くの場合「政治への無関心」と同義かもしれないが、私は無関心ではなく、政党で政治家を一括りにしない方針なのだ。
支持または不支持は、政党ではなく、一人一人の政治家に対して判断する。

 

支持する政治家は、何人もいる。
民進党では、有田芳生真山勇一小川敏夫山尾志桜里の各氏。
自由党では、小沢一郎森裕子樋高剛の各氏。
社民党では、福島瑞穂氏。
共産党では、特に支持する人はいないが、志位和夫氏ら同党所属議員の主張の大部分は、私が同意できるものだ。
近年は、民進党共産党自由党および社民党を概ね支持しており、その4党(「立憲4党」とも呼ばれる)の共闘を促進させる団体「青葉・緑市民連合」に、最近になって関わり始めた。

 

このように政治を重視する私だが、政治(的)活動に関わることには、いつも期待すると同時に不安を感じる。
政治に関わりたがる人には、厄介な人が少なくないからだ。
独善的な人、他者の「思想の自由」を尊重できない人、陰謀論好きの人などは、避けたいと思う。
そのような人は、活動の拡大を阻むだろう。

 

政治活動を行なう市民団体には、以前にも参画したことがあったが、不見識および非常識な言動が頻発する実態に呆れて退会した。
「青葉・緑市民連合」には、そのような駄目団体にはならないでもらいたい。
そのために、今できることを行なわなければと思っている。

映画「君の名は。」は、傑作ではない

日本では記録的な興行収入を達成した映画「君の名は。」を、2日に観た。

あまり期待していなかったが、割引料金の日だったため、買い物などを兼ねて出掛けた。


都会の男子高校生、立花瀧と田舎の女子高校生、宮水三葉の心が入れ替わる。

瀧は3年前の「死の直前の」三葉と入れ替わりを繰り返し、次第に二人の間に絆が生まれる。

瀧が過ごす「現在」には三葉は存在しない。


鑑賞後、私の近くにいたお年寄りが「ストーリーがあまり理解できなかった」と言っていた。

やや複雑な設定であるだけでなく、スマホを扱う場面がかなりあることも、お年寄りには難解だっただろう。


私は、ネットで「予習」してから映画館に行ったためか、ストーリーは理解できたが、それが特に良いとは思えなかった。

映像は、非常に素晴らしいのだが…

登場人物の思考や行動に、不自然な点が多過ぎるのだ。


①瀧(心は三葉)がバイト先の女子大学生(奥寺)の切られたスカートを直すために「スカートを脱いで」と提案し、それを女子大学生が受け入れる。

しかも、瀧(心は三葉)がスカートを直している間、女子大学生は下半身を毛布のようなもので隠して瀧(心は三葉)の側にいて会話する。


②瀧が三葉に会いに行くときに、高校の友人(司)とバイト先の女子大学生(奥寺)が、瀧が誰と会いたいのかも分からぬまま付いて行く。

しかも、旅館の同じ部屋で3人が宿泊する。


③三葉の同級生(勅使河原、早耶香)が、三葉(心は瀧)の「町民全員の命を救うための町民全員の避難計画」に協力する。

しかも、犯罪行為と認識しているにもかかわらず、爆薬まで使用する。


④中学生の瀧が、初対面の三葉に「瀧君」と呼ばれたのに、「どうして俺の名を知っているのか」とは言わず、「変な人だ」などと反応する。


⑤別々の電車に乗っている瀧と三葉が、互いを見付けて、相手と接触するために次の駅で降りるのだが、なぜか二人とも駅から離れ、人気のない場所で出会う。

二人が乗っていた電車が次に停車する駅が同じであれば、相手を駅で探すのが自然だ。

二人が乗っていた電車が次に停車する駅が異なるのであれば、別の路線に乗り換えるのが自然だろう。

 

ついでだが、一度大きな隕石(彗星?)が落ちた場所に、再び彗星が落ちるというのも、かなり不自然だ。


新聞広告では「大傑作」との評価を掲載していたが、これでは、とても傑作と呼べるものではない。


監督の新海誠は、「このような場面を作りたい」と思ったら、登場人物の思考や行動が不自然になっても、無理やりストーリーを組み立ててしまうのだろう。

より想像力または創造力があれば、自然な形で場面を作ることができるはずなのだ。


②の場面は、瀧が一人で行動するのでは、登場人物の声の大部分が「瀧の心の中の声」だけになり、観客にとって音声が単調に感じられ、不評を買うとでも思ったのだろう。

だが、瀧が一人で懸命に探し回る姿こそ、感動を呼ぶシーンになったのではないか。


⑤の場面は、瀧と三葉が二人きりになる場面を、ラストシーンにしたかったのだろう。

だが、駅から離れて「物理的に二人きり」にしなくても、「心理的に二人きり」にすることもできる。都会の駅の人混みの中でも、「二人が出会った瞬間、二人には時間が止まったように感じられ、互いに相手しか見えず、しばらくの間、二人にとって、世界には二人しか存在しなかった」とすれば、自然だった。

 

恐らく多くの人にとって目新しい設定だったのは、心が入れ替わる二人の場所だけでなく、時間も離れていることだろう。

しかし、「心の入れ替わり」「タイムスリップ」は、これまで様々な映像作品で数え切れないほど取り上げられた題材で、それ自体は全く陳腐なものである。

そもそも、「君の名は。」のタイトル自体が、菊田一夫作品のパクリと言われても仕方ないものだ。

 

10日発表された「キネマ旬報ベスト・テン」の日本映画部門で、「君の名は。」は、次点にすら選ばれなかった。

昨年の日本映画の上位11作品にもなれない。これが正当な評価だろう。

 

www.cinematoday.jp

 

www.kinenote.com

ベスト・テン及び各賞の選出者は、映画を多く見ている者に厳しく限定され、しかも選出者数が多く、更にその年齢・所属の幅(映画評論家、日本映画記者クラブ員など)も広いことから、当年の映画界の実勢を反映する最も中立的で信頼に足る映画賞という評価を業界内外からいただいています。

 

それでも、今回の大ヒットによって、新海誠の作品は、今後も確実に注目され続けるだろう。

だが、それによって、本当の傑作が目立たなくなってしまうことにはならないだろうか。

そのような事態は、既に発生しているのかもしれないと思う。


(3日に投稿したものを、13日および15日に加筆修正した)