「宮内庁書陵部に定年まで32年間勤務した専門研究者・鹿内浩胤氏(お茶の水女子大学客員研究員〈日本史〉)」の論考の抜粋を記録する。旧皇族の養子案にこだわる自民党の面々には、もはや「安定的な皇位の継承」について議論する資格すらないと思う。
https://dot.asahi.com/articles/-/284409?page=1
現在の皇室典範改正議論において、旧宮家の男系男子を皇族の養子に迎える「養子案」が有力な選択肢として浮上するに伴い、しばしば宇多天皇の皇籍復帰後の即位(臣籍降下した後に再び皇族に戻り、即位したこと)がその歴史的先例として引き合いに出される。
宇多天皇の父である光孝天皇は、即位後間もなく、皇太子を定めず、その皇子・皇女たちに「源朝臣」の姓を賜い、臣籍降下させている。これは当時の最高権力者であり、陽成天皇退位後の混乱の中で、複数の候補者の中から自身を擁立した藤原基経に、「自分の子孫に皇位を継がせる気持ちはないこと」を示したものとされる。その臣籍降下した皇子の一人であった源定省(みなもとのさだみ)が、光孝天皇重病という非常事態の中、これまた基経の判断で急遽皇籍に復帰して皇太子となり、皇位を嗣いだ。宇多天皇である。
(中略)
我が国において、一度臣籍降下・皇籍離脱した者は皇籍に復帰しないこと、また、臣籍降下・皇籍離脱した者の子孫は皇族にならないことが歴史上の通則である。もちろん、懲戒等によって皇籍を剝奪された者が、後に許されて復帰した事例など、限定的な例外がないわけではない。しかし、例外事例のうち、ここで問題にしている皇位継承に関係するのは、宇多天皇及びその皇子の醍醐天皇の事例のみである。
さらに正確を期すならば、宇多天皇と醍醐天皇の即位までの経緯の違いにも着目せねばならない。宇多天皇は「皇族から臣下、そして皇族に戻り即位へ」という本人の皇籍復帰である。しかし、醍醐天皇は父が臣下に降っていた時期に生まれたため、誕生時から臣下であった。つまり「臣下から皇族、そして即位へ」という、宇多天皇よりさらに特殊な「皇籍取得」という経緯を辿っている。
(中略)
既に三代、70年以上の歳月を「日本国憲法下の国民」として生活し、選挙権の行使、納税の義務などを果たして来た旧宮家の男子を皇族の養子とし、その養子の子(男子)を皇位継承資格者とするという選択を、宇多天皇・醍醐天皇の事例を「先例」として正当化するのは無理だと言わざるを得ない。
(中略)
なぜ、これほどまでに無理のある制度設計が、今進められようとしているのか。時計の針を2005年に戻す必要がある。当時の「皇室典範に関する有識者会議」の報告書(平成報告書)は、将来皇室に男子が誕生する可能性も視野に入れた上で、徹底的な法理的・歴史的検証の末に、安定的な皇位の継承を維持する観点から「皇位継承資格の女子や女系皇族への拡大」が妥当と結論付けた。一夫一婦制のもとでは男系男子だけで血を繋ぎ続けることは確率的・構造的にいずれ限界を迎えるという数理的な現実を看破し、養子案については「国民の理解と支持、安定性、伝統のいずれの視点から見ても問題点」があるとして、事実上否定したのである。
(中略)
政府はこれまで、平成報告書を公式には否定も撤回もしていない。論理的止揚なき「上書き」による養子案の復活は、行政手続きの正当性を欠いている。
(中略)
また、養子案が当事者間の「私的な合意」に頼っている点も危うい。合意の都度の国会承認で特権階級の恒常化を避けようとしても、候補者が旧宮家に限定される以上、一般国民の中に皇族の不足を補う「准皇族」とも言うべき新たな身分を作るという門地による差別(憲法第14条)の構造は動かない。